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パウル・レッピン:他人の楽園
他人の楽園
著  者:パウル・レッピン(Paul Leppin, 1878-1945)

作 品 名:他人の楽園

原  題:Das Paradies der Anderen

典  拠:Das Paradies der Anderen, 1921.

リ ン ク:[チェコ国立図書館]

英  訳:Stephanie Howard + Amy R. Nestor:Others' Paradise. Twisted Spoon Press, Prague, 1995.

リ ン ク:[Twisted Spoon Press]


 これまでの三五載じゅうごねん、主人公トマーシュはの工房を地下室に構えている。かれは生涯に過ぎ越し来った時間なるものについて思案したりするのはしてしまっていた――真新しい家並が都市に郊外にとならぶような時代とひびの労働とがこの男の心を変えてしまっていた。かれは低い木製の長椅子にすわりながら、かわっては縫い合わせるのであったが、渠の記憶のなかからは狭い格子窓の向うで数年をて世界がひらきはじめるとともに天地と滄溟とをき過ぎてはるかなる未知の領野へとひろがりゆくさまなどはまったく消し去られていた。

 渠は縁の汚れひびの入った窓框まどわくくらがりから通りをみてていた。だがそんなものは単なる断片に過ぎない、渠が作業をやすんでそのつかれた眼を上げる折に捉えるのは、所詮は眼眩めくるめく陽光の切れ端に過ぎなかったのだ。薄芒うすぐらへやは路地より低くあったから、いななきを上げて馬車が通りをくときなどは、壁が一面震動した。主人公トマーシュには渠のささやかなる密房を足早に通り過ぎるひとびとの顔を覗うことなど出来なかった――この靴屋にえていたのは行人の脚ばかりだったのだから。

 主人公トマーシュは満足していた。これまでの生涯が労働に充たされ、そしてまた、疑うべくもなく、これからもそうであろうことに。渠が外界に見出すものはまさに有益かつ床しきものであったのだ――典雅で小綺麗な靴を召した、華奢で嫋やかな脚が屢屢しばしば窓を通り過ぎると、綺羅美きらびやかな夏用草鞋サンダルが翩翩とき過ぎ、頑丈そうな徳比鞋ダービーや一目散なアメリカ人の大股歩きが砂をくのであった。主人公トマーシュはこれらを観察していたのだ。ようよう外なるひとらの靴がそれ特有のすがたを獲得してくるとた渠はそれらの相に習熟して見分けがくようになった。渠は長椅子からとらえた断片から個個人のすがたを完成する術を育んだ。通りを急ぐ歩調は、渠の観察眼には達し得ぬ場所へとおも続きゆくだろう人生のしるしなのであった。渠は徃来の怱怱たる汲汲たる肆行、或いは勇勇たる、或いは促促たるさまよえる脚の運行からその運命を占うことまでしていた。

 渠はりゆく生涯の記憶をまるで喪失していた。冷たく、重怠おもだるい革の臭気が渠の想像力を殺してしまったのだ。遇事陽陽として、わすられたはずの若やげる幼少期の残像が夢裡にち渠にむかって微笑むこともあった。徒弟時代の自身の姿が嬝嬝と単調な動きを示すと渠はそれに惑溺した。正しくかつてそうであったところのふるき姿がそこにあった。歳をかさねるごとに、時は渠の頭上のあたりに掛けられたまるい時計にいていった。かつては機械仕掛けの鐘が時刻をげたその時計も、塵埃によって打刻機構と発条ばねとを破壊されてしまっていた。今では渠は鐘の音をほとんど想い出せなかった。

 時にはたたく音もあって客がやってきて注文票を差し出した。主人公トマーシュは眼を上げ顔を覗おうとするのだが靴の大きさ以外に言い及ぶこともなくぐに黙ってしまうのだった。顔というものは渠にとってはあらゆる意義をうしなっていて渠もまたそれを感じる能力をすっかり失くしていた。夕けた工房にあって顔はその輪郭を曖昧にていた。渠の人間理解と世間智とはすべひびに窓辺を通り過ぎく脚から得られていたのである。世界というものの不可思議と恐怖とが――渠には考えも及ばぬまったく異様なものが――渠を打ちほろぼしてしまうときさえあったのだ。渠の深奥にうずめ去ったはずの記憶どちの亀裂や疵口きずぐちからははるかなる意味の啓示を伴って運命の力が漏れ出てくるのだった。やがて、渠は恂恂たるその眼を瞠ったまま、穴が空くほど履き潰されたみすぼらしい靴が窓辺をいざるように徐徐のろのろと歩くのをたのだが、へや幽静しじまには売女の打ち鳴らす磨り減った踵の戛戛たる音が響いていた。そんな瞬間は、滅多にないことだろうが、それでも、もしこれらのひとびとがやってきでもしたら、渠は革の上でけに殺してしまっただろう。

 主人公トマーシュが工房を構える通りには公園が隣り合っていた。トマーシュは公園なんぞにはったことなどなかったのだが――だ夏の頃、渠が窓を開け室の中へ空気を入れる頃には、金合歓アカシアやさしい香が這入はいり込んできた。昼下がり、渠はその公園にあそぶ子供と少女の脚をた。かれらが帰る頃、靴は草露に濡れ砂利道の黄色な砂が纏わりいていた。靴職人氏は女性に、或いはその孤独な生涯の幽寂へ独身の身の上へ迷い込むさえなき恋愛のほろ苦き甘さにも輝きにもそそられたことなど絶えて無かった。愛など忘れ去ったのだ、他のあらゆる物事と等しく。渠の青春は仕事とそれに伴う疲労とに霧散した――今や、時計の傍らのれ鏡が映し出すのは皺が寄り、瘦せこけた無精髭に蔽われた顔である。

 恋人たちの仲睦まじげにそばみながら、公園へのみちく脚を見たとき、或る奇妙な感興――得も言えぬしるしきもの――が時にはたしかにち、渠の鈍色の魂をなみだたせるのだった。仕事をする間、陽光の只央ただなか莫迦ばかげた小路をくようなひとびとの浮ついた怠惰ぶりにくらく眉根を寄せてはその口の端を蔑みを籠めた嘲笑に薄らと歪ませるのだった。脛をはすに突き出し、手をげ、一層暴暴あらあらしく鎚を下ろすのだった。

 渠はひびに窓辺を通り過ぎるひとびとのすべてを知っていた。そのうちにかれらの生涯をしるてる根深い諦念と無重力とをることができた。かれらはおよそ気遣いなどなく浮足立ちながら、無目的に、そして不当な苛立ちのなかで不意に大地をんでいる。驚くべきだろうか、渠は恋人たちのさきわいなる運行をて、その無錠なる空虚への扉を、萎びた心をうらみにおもったのである。

   ☆

 渠の窓辺をひびに通う革紐きの華やかな靴を召した――うらわかき娘の――両本にほん素的すてきな脚があった。それはいとけなくも怯えたような脚で、怱怱スカートの裾が絡げられ、靴職人氏はくろいストッキングを垣間見た。娘は独り、路次ろじにおけるすべての脚のなかで、トマーシュをけることとなった。その歩調は悲しみに鈍らされ、また足取りは重くさまたげられていた。渠はその脚が仕事に向っているのだと知っていた、渠と同じいきびしく、悦ばしからぬ労役に。ある朝、それらの脚が渠の窓前を何かひそかな恐怖にられたように焦り急ぐのをた。夕に帰ってきたときには、力なく立つさえままならない様子でさしもの渠も心をうごかされそうになった。そして、思いがけず、これらの脚が渠の夢を歩く夜さえあったのだ。

 未知なる娘の脚が渠の貧しく、淋しき平穏を乱した。突如として荒廃した魂から遁れようと、自由を烈しく求めるようになるとともに、堕落しきった、醜悪な魂に抗い、渠は人生なるものについて考え始めたのである。作業台に置かれた注文票も手著てつかずで、渠はふさみ物思いに耽るようになった。薄芒うすぐらい仕事場の壁に、色鮮やかでなやましき慾望の光――渠には未だ知り初めぬもの――が照り映えていた。刺すような痛痒いたみが渠から眠りを奪った。

 望まざる苦闘の日もとおく過ぎ去り癈疾えやみも癒えた。熱にうなされてる夢のように、渠をくるしめた不眠も消えてしまった。渠は以前のように仕事をこなすようになり、革をたたく。しかしそれでも、渠の人生は変わった。満ち足りた人生は、う孤独ではない。渠と同じように運命けられた、あの娘の脚は日ごととおく。晨昏、渠は窓をていた、それら脚を待ち侘びて。全く測り知れなかった幸福というものが渠の内部に湧き起った。宛然その脚が渠に隷従するかのように、渠の生涯がその脚に縛められているかのように、ともに外の通りを急ぐかのように、軽薄で気儘な群衆の跳踉する足並みのなかをとおけでもするかのように。今やそれらの脚は渠には身近なものとなっていた――娘の不運な心の重さに飢凍と貧寒とには悄然とした。渠は、外に、垢に汚れた窓框まどわくの向うに、ふためくそのの分身を、そして親しき姿をた。日に日に、見知らぬ娘の脚は重たげに生気を喪っていくようであった。

   ☆

 宵の頃トマーシュは室内に這入はいり込む空気の湿潤に春をった。陽光はむすめ御髪みぐしひかかがやくようになった。この靴職人氏は工房に差し射るまばゆい光の悪戯に苛立ち気を悪くした。千枚通しをかたえに置いて通りを見上げた。その日、渠の血の中には堪え難い不安が流れていた。未知なる娘が来なかったのだ――最後に通り過ぎてから随分経っていた。切切たる恋慕が、無気力とは裏腹に、渠を襲った。病気でもしたんだろうか……?

 その全感官を緊張させるような予感の働きに渠は驚噩きょうがくした。その孤独の住著じゅうちゃくの価値を、その喜悦を、そして喪失の恐怖をった。渠は娘の顔など見たこともなかったのだが、その羸弱した脚は渠の生涯に目的を与えてくれていた。脚は渠のものだった。娘への烏滸がましくも凄まじき愛慾に、恐怖と嫉妬とによる自壊に、執著のさなかにある彼の魂の邪淫はかれみずからを打ちほろぼしてしまって、渠は混乱のうちに窓を眺めやった。う暮れもおそき、夕景は通りに長い長い影をなげうっていた。

 主人公トマーシュはこおいた。時がよどみ、放憜と疲弊の極みにあった例の時計の方を渠はた。無限の恐懼とでも云うべき氷のような双手が渠を摑まえた――それは渠のへやの中で、ひとつずつ、いてしまった単調なひびの神静の恐怖たちであった。娘の脚ばかりが唯一生きていたのだと渠はっていた。それらの脚はだ通り過ぎたというに過ぎないのだが――外在する――渠の生涯そのものだったのだ。

 窓前にかすかに音を立てるものがあった。一体――何であろうか?

 ふたつのいとけなき娘の脚がわくの中に現れた。美美しき草鞋サンダルを召しワンピースの中にはストッキングが覗く。恋する女のように明るく幸せそうにうごいていた。靴は草露に濡れ、黄金きんいろの砂がまだ靴裏に纏わりいている。仲睦まじき同伴者が、男の脚がそのかたえに歩いていた。甘やかな、新たな幸福に揺れながら、両人ふたりは通り過ぎてった。

 靴職人氏の工房は急転、くらくなり、四壁は暗鬱としてほとんどくろくなった。

 数分の間、死のごとき沈黙が遍満していた。やがて、狂を発したようなおどおどろしい叫び声が天井にむかって上がった。窓硝子が震えた。主人公トマーシュは手首から血を流し、喘ぎ咽び痙攣を止めぬからだを床によこたえた。生まれて初めて、渠はいた。