著 者:スタニスラウス・エリク・ステンボック伯(1860-1895)
原 題:Narcissus
底 本:Studies of Death. Snuggly Books, 2018.
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余の父は余が産まれる以前に死に、余の母は余を産む途中で死に、そのために余は産後間もなく富と名声とを受け継いだのであった。余は唯だ、余への〈運命の女神〉の最初の微笑みを示すために言及したに過ぎない。美こそが我が生涯の一つの受難なのであり、惟うに余は躬らの裡に示された理想底のものに気著いたという意味では殊更幸運であったと云えよう。こうして文を書き連ねている今でさえ室を看回し、幼年、少年、青年と我が生涯の様様なる段階を描いた肖像画を眺めている。余は我が美貌ほどに愛らしい貌を睹たことなど絶えて無かった。且つ華やか且つ雅やかなる輪郭に、かくばかり大きく、目映く、暗青色の睲、黄金色の巻き髪などは、日光を織り込んだようで、天来のものの似く曲線を描いた口許に唇はなも秀抜の風雅を佩び、首と喉とは曄やかなる姿態をしているじゃなかいか! 余は他者より賞賛を得ることを欲するだとか、乃至は他者を悦ばそうと自ら粧飾することとかを意味する、自惚れなる語の本来の意味における自惚れなどはしてはいないのだ。ばかりか、むしろ、余は他者の考えなどに頓着しないのである。余は恍惚として鏡前に数時も彳ち尽くすことさえあったのだ。曷うしてか! 終ぞ余の睹てきた絵は只の一枚としてこの余自身には及ぶべくもなかったのだ!
余は少時より甘やかされて育った。学校での生活は余にとっては易いものであった。他の連中は余の我が儘に附き合い、教師連中は余の過誤を大目に看てくれた。もし余の級の同級生が余を悪み嫉視し、仮令敢然と余へ反抗しようと、上級生の我が庇護者諸彦の手で彼等の生命が脅かされることになると知悉していたのだ。余は此事を以て語の普通の意味に於いて我が学校生活が成功していたなどと謂おうというのではない。何故と云って、美童であるのに加えて、余は素晴らしく賢く、他の連中が一月掛けて学ぶ処を一日で修めていたのだ。それから余が自分を甘やかされたと謂うのは、些なくとも普通甘やかされた子供と謂う時のへそ曲がりの気難し屋というのではなく、反対に、余の意志が反対されることなど全く無かったところをみても、余などは恆に愛想よく振舞っていたのだ。最とも美感の発達した衆庶と殊って、余は全然熱情を持ち合わせていなかった。余は誰も愛することが無かった――だがそれでも、余は愛されるべく躬ら貴やかに振舞い、恆に余を愛する者を索め、実際それがために私意无き人物としての世評を獲得したのであった。
幼時こそはこの通りで寔に好かった。齢を重ねると余は社会へ参画することとなった。女達は、誰も彼も、余との恋に落ちてしまうらしかった。我が意は財産目当ての者や貴族目当ての者になどなく、余と同等の富と社会的地位を有する者にこそあった。我が恋路は祝福され、余の求婚者達は美人だと云われていた。美人とは、怎麼! 我が美に対して女達の何が美であるというのか? 余は女のことも女達の感緒というものも全く理解していなかった。ともあれ余は幾干かの小説を読み、誰彼となく愛想好く振舞い、小説で読んだ通りの、紋切り型のやり方で女達を愛してやった。ところが或るとき目映いほどに美しく念われる娘が顕れたのだ。娘は慥かにかなり目鼻立ちの整った女であった。娘はメキシコの百万長者の令嬢で、そして、云うまでもなく、誰からも覓められていた。寔に、余は此の時『バブのバラード』の「賎しき処女子と交際せし公爵達」を想起したが、自らの宝冠を授け、我が領地をこの娘の脚に踏ませてやろうと欲ていた、ベイリー公及びハンフィー公とは異っていた。輒ち件の娘は、喜んで我が「憐れで賎しき」娘となってくれた。茲で余は我が自惚れは此の時ばかりはかなり煽てられたと云わなくてはならない。彼の公爵達が余の為の背景となっているのだと惟うと至とも嬉しくなり、余は娘に出来る限り優しく振舞い、何処へ出掛けるにも娘を連れて徃ったものだ。娘は慥かに聡明であったが、一方で娘の性には余にとっては不愉快に感じられる粗野な苛烈さがあった。
或る日娘の父君が余に仰有ることに、「予が貴君と愚女が婚約すると聞いて何れほど嬉しいか君には想像も著かんだろう。遇然にも二人きりになったことだ、事の委細を取り決めてしまっても構わんだろう。予はあいつには気前よく振舞ってやりたいし、云云ばかりの持参金をやろうと惟っておるのだ」(驚天動地! 成金野郎奴!)
「貴男のお嬢様と婚約ですって!」余は叫んだ、「我我の間にそのような考えは毫もございません。迚も残念ですが、余には貴男への情報提供者が何方か惟いも及びません。その情報は徹頭徹尾間違ってございます」
「何?」父君は云った、「エンリケータと婚約しない? 一体何ういうつもりだ? 予がお前の事為にあいつを付き合わすのを許してきたのを何と心得る? もう一度、訊くが、何ういうつもりなんだ?」
「申し訳ございません」余は答えた、「貴男がそのような誤解に苦しんでおられたとは。余の申し上げたのは本当のところ、貴男のお嬢様との交際を未来永劫お断り申し上げたいということです。それと余にはお嬢様が貴男と同様な誤解の下にあるとはとても信じられません」かく意見を述べ立てると余は足早に当家を去った。
それからしばらくして、余が客間の暖炉の近くに座して本を読んでいると、突如として当のエンリケータ自身が入って来たのであるが、その眼は怒りに燃えていた。娘は鬼神が化現したかに看えた。憤怒の観念の明象であった。余はその瞬間に閃いた箴言を想い起していた。「女人の怒り以上の怒りは存在しない」。
「そうか」娘は云った、「これがお前の態度か! 歍、だったら、喰らいな!」こう云うと、娘は硝子の罎に入っていた液体を余の顔に対って浴びせ掛けた。失明するようなことはなく、硫酸では無かったようだ。言い換えるならば、不仕合せにも、この眼は明いたままだったのです!
突如顔の片一方が疼き出し、次第次第に貌全体が爛れてゆくのであった。頰は崩え落ち、鼻の肉は刮げ落ち、毛髪は手を満たすほどに抜け、歯は幾本も脱け落ち、口は歯列が剝き出しに眎えるほどに醜く歪み、眼は落ち窪み悍ましく成り果てて、眉も睫毛も剝がれ落ちてしまったのだ。余は一度だけ自らの姿を鏡で睹た。これ以上に忌わしいものを想像することなど不可能だろう。
幾人かの友人は余に同情して邸に寄ってくれたが、余は決して誰も容れなかった。余は屋敷中の鏡を毀し投げ捨て、水盤を覗き込むことさえ耐えられなくなった。召使には簾の裏から話をし、夜になるまで、全く独り切りで暮らした。余には外気に触れ運動する機会が唯だの一つだけあり、そのために余は警吏を買収しハイドパークへ夜分の閉園間際に入れるようにし、そこで余は幾んど夜通し散策し、再び門が開く頃になると、急ぎ帰宅するのであった。
或る夜、余が日課としていた孤独な散歩へと向っていると、闇の中から子供の泣き叫ぶ声が聞えて来た。
「誰か救けて」と泣き喚いていた、「お母さんが僕をここに置いてって、それで直ぐに戻って来るって云ったのに、今う僕は四度も時計が鳴るのを聞いたんだ、でもお母さんは戻って来なくて、僕眼が見えないんだ、全然見えないんだ」
余は持っていたランタンを燈した。九歳か十歳くらいの子供だった。襤褸を衣ていた――が声の調子には気品があった。
余は云った、「今助け出すのは無理な話だ。君は朝になって門が開くまで待っていなさい。こっちへ来て座ってなさい。お腹は空いていないか?」
「うん」子供は素直にそう云った。
「さて、それじゃあ、何か食べようか」それから余は夜食用にと、いつも種種のご馳走やら葡萄酒やらの食糧を入れて携行していたナップザックを開け、ナプキンを拡げ、食事の準備をした。
軈て子供は余に渠の身の上話を聞かせてくれた。余には渠の語ってくれた方法を損なうことなく反復することは適わず、唯だその要点を示し得るのみである。渠は迚も繊麗な見た目で、最とも愛らしい顔をし、閉じられた眼の面には無限の情熱を湛えていた。渠は母親と二人切りで暮らしているらしかった。名前は、渠曰く、トビトといった。生まれながらの盲目で、何かを睹るということの意味を知らなかった。渠は姓について考えたこともなかったようだった。渠の母は美人であるとの世評からいつも「ボニー・ベス」と呼ばれていた。
「美人ってどういう意味なの?」渠が訊ねた。余は慄えた。
「吁!」余は云った、「見た目が好いという意味だ。しかし美人であることなんて無意味だ。善くあることの方が遙かに好いんだ」
渠が云うには母親は渠に対して迚も厳しく、しょっちゅう渠を撲つらしかった。ただ三か月置きにやって来る紳士の小父さんがいて、その紳士は渠に迚も優しくしてくれ、贈物を持って来たり、母親に金を渡したりするという。少年が云うには、かかる紳士は航海士であるらしかった。渠はいつも紳士が来るのを知っており、それというのも三週間前になると母親が渠を撲たなくなるからで、これは或る時紳士が少年の打撲痕を看て、酷く腹を立てて、母親を殴りつけたことがあったからだという。いつか紳士の小父さんが去ってしまうと、渠の母親が云った、「もしお前が妾のことで何かあの小父さんに云おうものなら、死ぬ一歩手前まで痛めつけてやるからね」
紳士は少年と好く喋り、散歩へ連れて徃ってくれたそうだ。しかし紳士が渠に与えてくれた玩具は皆母親が取り上げてしまって、飲み代にするために売り払ったという。紳士はこれまで二度ばかり「郊外」なんて云われる場所へと渠を一週間ほど連れ出してくれたことがあった。そこでは花花が咲き匂い鳥達は歌い集い、渠は本当に倖せであったという。
「お母さんが僕から取り上げなかったものが一個だけあるんだ」と渠は云った、「これ」そう云うと渠はポケットから小さな笛を取り出してみせた、「お母さんが何にも成らなかったからって、それで僕は通りに出てって笛で遊んでも可いって。そしたら、もしかしたら、誰かが僕に小銭でもくれるかもって」それから渠は小さな笛で演奏し始めた。驚天動地! 余はそんな物からこれほどの音色が奏でられようとは全く考えもしなかった。渠は能く知られた手回しオルガンの曲を演奏し始めたのだが、様様な装飾音に彩られていた。余はただただ魂消ていた。「たくさんのひとが僕にお金をくれたんだ」渠は稚く、云った、「でもお母さんが僕から皆取り上げちゃうんだ」
或る日渠は紳士が渠の母親と口論しているのを耳にした。「それじゃああんたは妾を善き嬬として迎える気はないってわけだね?」母親が云った。
「君なんかを嬬に娶るなんて全く無理だ。その減らず口を噤みたまえ。君だって僕が君と結婚出来ないことなんて十分能く知っているだろう。出来たとしても、御免だがね。僕が望むのはあの憐れで可哀想なトビトを連れて徃くことだけだ」
「たった独りの子をこの母から盗もうったって」母親が云い、歔く、「そんなことは英国の法が許さないんだから」
「そんな忌々しい虚言を愧じたらどうだ!」紳士が云った、「お前が子供の面倒を看ていないことは知っているんだ。お前は唯だ金が欲しいだけだろう。僕はお前があの子に虐待しているのに感著いているのに、それでも渠は決してそのことを一言も口にしない。ちっ! 善き嬬だなんて吐かしやがって。あの子が何様な服を衣せられているか――お前が何様な服を着ているのか看てみろ!」
紳士が出て去くと母親は渠を捉まえ、痛く殴りつけたがために渠は救けを求め叫びを上げた。件の小父さんが戻って来て、母親の腕を摑み地面に押し倒した。
「おい」小父さんが云った、「好い加減にしろ、女悪魔奴! もし再たこんなふざけたことをやったところで負けるのはお前だぞ!」
紳士は此れまで非常に優しくしてくれたが渠が紳士を看たのはそれが最後であった。渠は頰に熱い涙が流れるのを感じた。
「憐れで可哀想なトビト!」紳士は云った。「僕は遠い国へ徃かねばならない、もしかすると最う二度と会えないかもしれないんだ」
それから渠は紳士が渠の母に語り掛けるのを聞いた。「いいか、ベス」と紳士は云った、「これが僕の搔き集めた金全部、そして僕が出て徃くからにはこれで最後だ。だが願わくば直ぐに帰って来て、それからもっと高い給料を貰うつもりだ」
渠はその後何日にも亘って泣き叫び、母親を酷く怒らせた。或る日、暫く経った頃、渠は紳士が何時になったら遠い国から帰って来られるのか訊いた。「彼奴は最う帰って来やしないよ」渠の母がぶっきらぼうに云った。「彼奴は死んだんだ――アフリカで撃ち殺されたんだ、くそったれが! 外へ出て笛でもやって来やがれ」
渠は通りへ出たものの、初めは酷く泣き叫び、軈て漸くのことで自らの悲歎を音楽に表した。「そういう訣で」と渠は云った、「僕はそれまで貰ったよりももっと沢山のお金を貰ったんだ」。暫くして渠は母親が一人の男に囁きかけているのを耳にした。「くそが!」男が云った、「其様な忌忌しい屎野郎伴れて徃けるかよ」
「吁、如何にかするって」母親が云った。その晩渠の母は渠を公園まで連れ来て、自分は話をしたい人があって、直ぐ戻るから、其処で待っているようにと渠に誣告げたのであった。渠は男の声を耳にしたが、渠の母親が戻って来ることは必と無かった。
幸い、子供は話を仕了えると直ぐに眠ってしまった。余は何と云うべきか判らなかった。その余りの酷薄ぶりが余をして自らの面に抱えたあの醜貌を想い起させた。夜が明けると余は子供を起こした。余は分厚な黒い覆面を下げ、子を伴れて帰宅した。召使を調査に遣ったところ、余の予見通りの結果が得られた――件の母親は荷物を纏めて逐電し、賃料も払っていないようであった。
そうして竟に余に一つの解決が齎されることとなった。長きに亙る孤独の涯に、漸くにして余は一人の伴侶を得ることとなったのである――渠こそは余の醜貌に怖じけることのない人物であった。余は自らの夜行性の生活を了えることを決めて仕舞うと、どうにかしてひとと顔を遇わせぬまま数哩でも歩き回れて、僥倖とでも言う可き、召使などは街の近くに置いて、日に一度家事をして余へ食糧を届ければ済むような、野致溢れる郊外の荒蕪の地に別荘を需めることとした。
少年はその郊外の地に満足したようであった。盲目の裡にあって、安穏たる、この上もないような渠にとっての幸福は、余がこれまで経験した風光の美感における悦びより以上のものであるらしかった。渠は聡明且つ気象宜しく、はた随分夢中になって悦んでいるようだから、余は渠に音楽を教えてやった。渠は、云うまでもないことだが、それまでピアノを知らずにいた。渠の唯一の楽器はあの小さな笛であったのだ!
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一日余は新聞でさる高名な眼科医が生まれつきの盲人に施した手術が成功したという記事を読んだ。恐るべき苦痛が余の心裡に沸き起こった。あの子もものが視えるようになるではないか! 渠にとって最も価値があることは余にとってもそうあって然るべきというのに、余の手で渠からその機を奪ってしまうべきではないかなどという恐ろしく虚しい考えが余の心裡に兆した。もし、渠の目が明いたとしよう、そして余を看たら、恐怖の裡に余から逃げ出してしまうのではないか。だが余は自分の健康が衰えつつあるのを知っている――そう長くは生きないだろう、それに、余は唯だ束の間に過ぎぬ自己満足で、自身の手で救けてやれるというのに、あの子を永久に続く闇へと追い遣ってしまおうというのか? それこそ、今述べたように、恐るべき苦痛ではないか。それから余は眼科医に診てもらうことに決めた。あの子をロンドンへ連れて行った。
眼科医が来て云うには、あの子の例での手術はかなり単純なもので――新聞で紹介されていた症例ほどには難しくはないという。要求されるのは――云々、不詳悪しからず。余は医学用語は知らぬのだが、さはさりながら手術へは同意した。あの子は麻酔を掛けられ、軈て、手術が終わると、渠の目はに包帯が巻かれていたが、三日もすれば外せるという。
三日経って余は包帯を外してやった。余は恆に、盲目、それも生まれつきの盲人について、ものの視覚像を得ることについて考えていた。あの子の場合そういった考えとは異っていたのだ。手術は成功し、ものが視えるようになった。渠は触覚を通して、椅子や机が何か、よく知っていたが、それでも余は渠に見た通りの椅子や机についてあれこれと説明するのは随分難儀であった。渠はかなり茫然としているようであった。暫く経ってから渠は終に口を開いた――
「貴男は本当に世界で一番美しい人なんだね!」