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附属図書館地下一階鈔
附属図書館地下一階鈔

森林のふひとは、わが歌にとほくすぐれし

花やげるものがたりかくぞ誌しぬる。

(キイツ*1

おお 夢見る女よ、あなたを純粋な

至楽の迷路に引入れるためには

(マラルメ*2

忘却の河は お前の接吻の中に 流れる。

(ボオドレエル*3

夢って何?」とく声がした。

 窓の外には蝉の声のさんでもあったろうか。あるいは、それは脱蝉をのぞとおったはねへの晴爽な後型でもあったろうか。わたしはとおく大学附属の図書館の窓際の辺にて、気に入らぬ講義からけてきた後ろめたさを背負いながら、上体ばかり蹲って、かたえには枯葉色をした幾冊かをならべたまま、網状に錯綜していく設計課題について頼りない頭をなやませていた。四角や三角、正円や楕円なんかを頭の中で貼り合わせ組み合わせ組み立ててみたところで、れも組み損なってしまって、種種くさぐさの立体は劫初の瞬きのように崩れ去ってしまう。わたしは混凝土コンクリートから散乱する分厚な冷たさに包まれたきりの、しずかな図書館の一席にて図書館の構造と役割とを繰り返し考えていた。天稟のぐろな粘性の波に満たされた、図書館の中のわたしの頭の中の図書館のなんと空虚なことだろう。

 それがいつしか居睡りをしていたようで、わたしを呼び留める声に目を醒ましたのであった。玲瑦那レオナ? にわかに心裡にった名にこころあたりのい。わたしは窓外にそそ流景ひかり茫然ぼんやりと眺めたまま、その声の伏し置いた、ほとんどいつわりにちかい踪跡を、垂れつる涎と濡れたまなじりとを拭いつつ、鈍い頭の中でさぐろうとした。暖光の只中もなかかおりなき冷香のそよぎ。とおく暗在するあめもよい。ようようまなぶたおもだるくなりまさり、わたしの微睡まどろみは青い一本を枕にともこまやかな闇を――あざらかな最薄光を獲得するに到った。

 果たして、わたしは声の主を知らない。わたしは父をすら知らないでいる。杳として知れぬの暗象が乃今いま、硝子の裏面に塗られた汞合金アマルガムのように、わたしの就ける安眠やすい幽壙はかあなを――洞洞と!――充たしていく。

 くらく湿った土塊の匂いと雨滴のしたたる音。あざれた鬱樹を吹き抜けるしるしき風のすがた。わたしは少しく身震いした。あお太虚そらの毫もえぬ原生林に、乃今いまや深甚と都市の底に沈める歴史の廃墟に、わたしはよこたわっていた。頰に触れる蘇苔類と地衣類とには朧めきつ懐かしい気さえする温もりがあった。手を伸ばしても側に置いてあったはずの茶ばんだ本の一冊とてもからずに、かれた朽葉病葉が探りを入れた掌の中でくずれてしまう。見も知らぬこの森の親近感は、言うなれば、わたしの欠如態がそのままの形で――や、わたしの可能態の塋域おくつきつくられた沃氏の函テラリウムを作庭するその同じい庭園術によってまさしくも作られていた。

 わたしは未知の陰森を、泥濘に脚を取られながらも、一方では足にまかせて、さも勝手知ったる土地でも歩くかのように歩いた。しおるものだになき大振りの枝からは緩緩ゆららと蔓が延び降り来って、陽の光はと言えば、ほんの僅かな晴れ間を作るばかりで、夜光をひかる苔の頭上へと古びた樹樹が音をててくずれ落ちていく、すさまじき古代林を。わたしがこの幽玄の懐かしさをあきらめたのは、かつて誰かが言ったような落葉の上の神秘をみ分けている折、ちょうど心が萎縮するほどに冷たいらん淋漓したたりをこの顔に受けたときであった――

 狸だ!

 眼前といっては幾分遠い向こうの方で一匹の狸が――器用にもその後脚を使った二足歩行で!――どこかすずろな調子をびつつくのがえた。くろく沈鬱な脾臓の沼沢を、その手には赤い花の幾本かをつかって、軽快に跳んでく。そして、白い液汁がしるしを残していった。どういうわけか、わたしはそのあとうことにした。

 鴉の鳴く声が不気味に響く深黒の幽森を、徱徱かろがろと跳び歩く一匹の狸のあとを追って進んでいくと、はしなくも、段段と懐かしさが強まるような気配がした。十数分も経ったろうか。竪琴の奏でる音への類感をめてうに久しかろうとりでのような石積みの壁を越えたころだった。狸は崖下に大きく穿たれた洞窟の中へと入っていった。あなの入口には崖の上に向かって天までとどきそうなほどに大きな梯子が置かれており、かすかに差し込む日光で金色に耀かがようのがえた。

 わたしは特段の恐怖などなく、その洞窟へ向かって走り寄った。四辺あたりには涓滴にほとびれたのであろうしわやぶれた紙などが散らばっていた。

「ようこそお越しくださいました!」わたしを待ち受けていたのは、安っぽい花炮クラッカーの鳴る音とともに上げられた、二匹の狸による大音声の歓待であった。「お客様は記念すべき当館三六二万八八〇〇番目の来館者でございます。さぁさ、お待ちしておりましたよ」

 しばし立却たじろいでいたわたしは先程の狸と、そしてその狸にそっくりなもう一匹の狸と、二匹の狸たち――二匹とも即座に飛び散った紙片や糸屑を拾い始めると、手際よく、肩から提げた鞄へと押し込んだ――に手をかれ背を押されしながら、薄暗い洞窟の中を歩いた。左右の壁面には炬火たいまつやら燭台が無造作にしつらえてある。そして、道は蛇のようにがりねりながら、わずかに下方へ傾斜していた。時折り、天井から水滴が落ちてきたかと思うと、隅の方を黄赤の点をうかべたまま白っぽい線になって流れてはあやしく照り映えて、処処でちいさな渦を巻きつ行き暮れていた。

「さあ、こちらの扉をお開けくださいな」一匹の狸がそう言った。「この黄金の扉がわたくしどもの運営しております館の正面玄関にございますゆえ」

 そう案内された扉には過剰にも思われる迷宮の似ききわやかさを以てなされた佹瑣めく蛇状の華飾が執念しゅうねく施され、さなきだに周囲の壁面は豪奢な寄石細工ピエトラ・ドゥーラかざられ一目てさえ眩むばかりに美美しく、象嵌詩ヴェルスス・ラポルタティ集句詩チェントを彷彿とさせる奇思恠誕の意匠が一種の可怪おかしみを内包した細密さをもって、渦状の幻惑をもたらすほどに彫り込まれていた。それから、“Per me si va ne la città dolente”やら「人生識字憂患始」とかいった額や扁額やが眩暈のするほどに数多あり、且つ掲げられ且つ棄て置かれ、さながら不出来な驚異の棚ワンダーキャビネットの様相であった。

 さあ!――と、石段を踏み上り脇侍のようにして扉の左右に立っていた二匹の狸に急かされて、おそる虞る手を伸ばすと――何のことはない、いかにも重そうだった黄金の扉は雷鳴のような音をてながらほとんど独焉ひとりでに開いた。

「お達者で」狸のうちの一匹はそう言うと、閉まりゆく扉の向こうでこうべを垂れた。「わたくしめは本日は受付担当にございますゆえ、こちらで失礼致します」

 図書館だ!

 扉の内側にはに溢れるほどにおおきな図書館がひろがっていた。はたてさえ消えて茫茫たる書架には無数の書物が収められており、そして何より壁に飾られた大量の画中画がこの図書館の迷宮性を象徴しているようであった。

「それではこちらの秤へお乗りくださいませ」一匹残された狸が言いながら、わたしを大きな秤の前へと導く。「入館者の方は必ず体重を測らせて頂いております。何しろ、入ったときと出たときとで重さがちがっておりましたら、それはそれはう、事でございますから」

 わたしが秤に乗っている間、狸はてきぱきと目盛や何かをあらためながらもお喋りを続けていた。「申し遅れました。わたくしどもはこの図書館で司書業務を担当しております者にございます。先程受付に戻りましたのは、双子の弟でございます。一日置きに担当を交代しております」狸の司書官は鞄から書類を引っ張り出すと、手早く記録をえた。

「それはそうと、お客様は本日はどのような御本をおもとめでしたでしょう」わたしは口籠ったまま司書を見据えた。「おやおやおや、そうでした。お客様は本日が初めてのご利用でしたね」

 では、こちらへ――その毛づやにはやや野生味の感じられる司書官は、ひとり頷くとわたしを先導するように通路の方へ歩み出て、図書館に関する説明をし始めた。曰く、本図書館はあらゆる本を収蔵しております。ただし、そこいらの図書館とちがうのは、本館におさめられているのは出版されることのなかったすべての書物という点にございます。この棚もあの棚も、一度も世に出ることのなかった、すなわち書かれることのなかった、あるいは、たったの一度もひらかれることのなかった、ありとあらゆる書物ならぬ書物で埋め尽くされているのでございます。それは誰かの手になる書きかけの日記かもしれません。誰かの手で書かれるはずだった手記かもしれません。意味を為さない文字列でも有り得たかもしれません。生まれて来なかった者の産声でもあったかもしれません。それから、無論、死せる者たちの断末魔でもあったかもしれません。とにもかくにも本館の運営は四十二人の職員でどうにかこうにか切り盛りしてございます。

 そうは申しましても、実際には職員以外の手もりてはございます。ほら、噂をすれば――狸の司書官が言うが早いか、わたしの背後から何か黒いものが飛んで来るではないか。

 鴉だ!

 鴉は嘴にくわえていた包みをわたしたちの近くとなるように落としていくと、啞啞と高く鳴き、そのままの勢いで上方へとがった。

 ――今のは二羽いる鴉のうちの一羽でございます。かれらはわたくしの秘書兼配送係をやっております。何分、わたくし愚弟おとうとちがって片方の眼が悪いものですから。司書官はそう言うと足許の包みを解いて、中に入っていたものを取り出した。たしかに、まじまじとれば、片側の眼窩には水晶玉が嵌められているのが判った――これは今日の配本分ですね。誰かが思案したまま書かれることの無かった探偵小説でしょうか。本の表紙には絹帽に片眼鏡をした紳士風の兎を模った紋章が圧されているようであった。

 そんな風にして司書官に導かれるまま、夫子かれの案内を半ば耳に留め半ば耳から流しながらわたしは迷路のように曲折する館内を歩いた。廻廊へ出た折のことだった。天高く陽が差し込む中庭には、万物ものみなの影が遙遙はろばろと長く延び、空をぶ狩人のエクフラシスが施されたメリガラスの瓶から流れる風琴オルガンの音が、潺潺たる細流せせらぎと、風にそよにおう花壇とに諧和して、一つの風光がうるわしく紡がれていた。あるいはユリやバラ、あるいはアネモネやヒヤシンスの咲き匂う苑には、方形の大理石が化石いしぶみごとしずもりのうちに一定の間隔でかれ、そこここに据えられた有翼の獅子の像や動物の首のいた半人半獣の像、十も廿にじゆうも乳房のいた女人なんかの像のかずおおきが道をく者を睥睨していて、真昼の明るさを打ち消している。

 綾なす花羣はなむらからこぼれ落ちた花弁の流路を跨ぎ越えて、司書官とわたしとは庭園の中洲の方へと歩みを進めた。

 あそこにいるのは出入りの職人でございます。うっすらと男性の顔のようなものがられた熱帯性の大樹を思わせる円柱の石像をよぎった頃、司書官はそう言って獣の前脚を伸ばした。そこには、複雑な機構を備えた読書機械――緩徐な速度で回転する書見台の前に座して居眠りをしている老人がいた。立派な髭を蓄えた老人は、アカンサスやアプロスドケトンの浮彫で飾られた噴泉の側近くで、寝息をてている。失敬。と、司書官は言うや否や老人のからだを搖すった。

「眠りの王よ。橋を開けて頂きたい」

 しかし、草の蔭に居る老人は一回の瞬きさえもせず、六夢をしりぞけて熟睡うまいを眠り続けている。滭沸と水のそそぐ水盤の上ではれたロゴダエダリアの花がらぎ廻り、蛇の形をしたささやかな池の縁に置かれた望遠鏡はもだしたまま上方をている。司書官は心底呆れたとでも言うような身振りをすると、庭園の隅にある大きな木製の機械の方へとけた。機械の前方には大きな河が流れており、た上方には六角形を半分に割ったような部品が一本の巻子みたように幾つも巻かれていた。

 司書官が行ってからしばらくすると、大きな電働機モーターの音とともに巻き取られていた木板が降りて、彼岸へと伸びてゆくのがえた。

「いや、失敬。それでは参りましょう」司書官はやや息を切らしたまま、手巾ハンカチで額を拭い拭い案内を再開した。

 図書館の中庭を流れる大河をわたりきったところで、司書官は岸辺に寄った。随分と歩きましたから、お客様も喉が渇いたでしょう。とは言い条で、司書官は提げていた鞄から器を取り出すと、一気に水を飲み下して、それから後、わたしへも一盞の水を奨めた。わたしの手許に寄越された小さなプラスチックのコップは不思議に親し気な顔をして、わたしの口へとちかづいた。とまれ、きよらなる追憶は、一杯ひとつき月映つくばえに浸透し、司書官の手にたれた小さな椀には赤い蝶がはてていた。

 そのとき、わたしはようやくわたしの探している一冊というのが判ったような気がした。水面を撫でた風がく吹き上げて、真っ赤な蝶はわたしの頭上を飛び越えていく。

「それでしたら、もちろん、この先に架蔵されてございます」

 道の辺では、雨晒しにされたのであろう傷んだ書物と、来るべきあまの偉業や猫のすがたを聯想させるような、細密を内包したままの仕掛りの建材とを、暁暗あかとき濃様こまやかなる寂寥が蔽っていた。それでも、洞窟の内部であることを忘れさせるような、詰屈の明るみにあたりながら幾干いくらかの道程を歩いていくと、やがてふかい谷間のはてへ、迷宮のような図書館へと再びいたったのであった。

 黒い門を潜った先にひろがる館内は、地下深くへとそそがれゆく河の流れにじって、とおく何か退屈な作業をしているような慌ただしい物音が、陰陰と響いてくるようであった――それは例えば、テーマ引きの辞書の先頭の項目に「存在」の項を立項したばかりに無限にも近い観念の収集と配列とをけてしまった編纂者たちの、あえかなる痼疾への嗟嘆と真宅を忘したやらいの物の音が。

「こちらの書架をお探し下さいませ」

 司書官は仰仰しい辞儀の後、案内を終えたかのように、一つのへやの扉の脇にったまま、わたしにかって本を捜すよう促した。室とっても扉や壁といった仕切りだったりあしらいだったりがほとんど飾りでしかないようなおおきな空間であった。わたしは常陰とかげの書林におうりながら、一冊の書物を――ありうべき一つの手記をさがした。気のふさぐ錯綜と迷眩との只中にわたしはくるめきつ惑いつ、書架と書架との間の壁際に空いた穴を見発みいだした。明らかに通用口とはちがったたたずまいに、わたしはそつと忍び込んだ。

 穴の内部は白亞の宮殿みあらかめいた華美な、派手やかな貝殻模様の装飾と彩画だみえ、そして夥しい肖像画、或いは書斎や画廊を描いた絵画、運河沿いに建ち並ぶ邸や雨のる四辻を描いたような風景画などで蔽われた、巨大な空間がひろがっていた。あなぐらの中央には紫の薄布の掛かった寝台があり、さらには球状の鏡がしつらえてあったのだが、さはさりながら、わたしはそれらの什器を余所眼よそめに一つの書斎画にまじこり、あやしく魅入られていた。全体が薄暗く輪郭は決して際やかとは言い難い画面の中、仄光ほのひか燈明あかりに照らされた文机、その上には青い表紙の一冊が深長な消息をひそめたまま、しかすがに辨明のための喚起にまじめきながらかすかに、一箇の秘文字のごと安らけく置かれている。わたしはそれをむかしから知っていた――倒錯した視角の中、机上の一隅に置かれたぐらい鏡に映った慕わしくのろわしきかおを。

てください、あの蒼白はいいろの面を。うらの無さそうな無垢を」絵に見惚れていたわたしのうしろから、司書官の声がした。「詩人の調剤する贋物の療法によってしか治癒しえぬ、めぐしきいやし難き者どもがやって来ましたよ」

 するとにわかに絵の中の視角が動き、書斎の入口を映した。開け放たれた扉の向こうには白濁りした不定形の罔両うすかげが複数あって、いずれも互いに緩やかに混融し合いながらこちらの方へと倒れ込むように縺れ、それでいて蹣跚としたうごきでちかづきつつあった。しかし、わたしには何よりもその扉の前に立った人物の暗澹と塗り込められたような眼窩のくろさが目に留まった。

「こっち!」どこか、とおくの方から少女の声がした。

 本だ!

 咄嗟に振り向いたわたしの眼前まなかいにあったのは、あの司書官の姿ではなかった。代わりにあったのはうずたかかさねられた布装や革装や紙装、或いは巻子や竹簡の書冊の魁偉の山――の異相すがたった𠫕おおきな寄せ絵アルチンボルデスクの怪物であった。

 その恢恑の異貌の内なる、くろく重おもたげな闇を湛えた洞穴、うつろな黒睲ひとみ最央さなかには、淋しげなわたしの鏡映の、はるかな気配ばかりが、無限の反映を伴いさまよっていた。痺れたようになやむわたしの窣窣の歩みへ、しろな影がそのを這い擦り寄せる。

「はやく!」少女の声が強求する。

「わたしはこれまでのすべての本を読んできた。そして、これからのすべての本を読むだろう」ものびた古冊の異材たちが蠢き、昏暗の鳴響どよもしが美飾の室内に震う。「これまで開かれたすべての頁を、今まさに綴られ編まれつつあるすべての、これから書かれるであろうすべての、そして書かれることのなかったすべての本を。すべての言葉を。すべての物語を。すべての声を。それから、お前の――」

 ――わたしの? と、わたしが口に出して訊くでもなく心裡に反復した言葉を見透かしたかのように、無明の視線が動いた。書冊の一一のすきからは、鈍い光をうかべたしろい触手が飄溢あふれだし、粘液質の尖端がわたしの方へと延び来る。わたしは構わず巨大な本の山をのぼり、腕を伸ばした。ただむきへ、肘へ、かいなへ、頸筋くびすじへ、脣許くちもとへ、耳朶へ、顳顬こめかみへ、髪へと、た同時に、反轉された方向への反復を犯しながら、冷ややかな、刺し入るような感触が長くつたわっていく。わたしの眼はだ一点の虗空をみつめていた。觱発の影裏を貫き超えて伸ばされたわたしの手が達したのは、青い布装の一冊であった。

 憰怪の闇の秘奥から一書がかれると、轟音とともに書冊の塔は一瞬の裡に崩れ落ちた。床の上をひいる頁はたちまち燃え上がり、白煙が室内に拡がり始めた。

「はやく!」

 わたしは先刻から幾度か声のしていた方へ、烟と煤、塵埃とに咳き込みながらも急いだ。室中の絵からは白い液汁が垂れ、罔両うすかげむれがわたしを追うようにそちこちを這い廻る。あの声がしたのは室の中央に据えられた球型の鏡の方だった。

「鏡の中へ!」

 わたしが鏡の前へ立つと、そこには何のことはない、青い本を手に持ったわたしがっていた。わたしが立ち惑っていると、少女の声がわたしをかした。鏡は少女の瞳であった。わたしはそこにあらわれた一箇の景物と言ってかった。

 わたしはゆっくりと円い鏡へ手を伸ばした。捩れた恰好のわたしのからだが光の中に音も無く融け込んでいく。

「この図書館は永遠に読まれることなく、だ読み続ける唯一の書物だ」遠くわたしを咎めるような声が――たしかに聴き馴染みのある、と言って聞き覚えの無い声が、無辺の光輝の中に、温かな闇の中に、独りしぶ。「この世界は誰にもられることのない寤夢だ。あらゆる謎の無際限の組み合わせだ。組み立て損なった存在の家だ。聞かれることのない永遠の産声だ。すなわち不失の慈悲なのだ」

 冷たい感触がわたしの肢体をひたしていた。

ねむりはい。睡りだけが世界をあらう」

 穴の底にた。ほんのわずかな水量みずかさが、吹き降りる風にれながら、わたしの方へと鼕鼕とくずれ寄り、わたしのる物を濡らしている。れば、渾沌に穿たれたすきのごと月がしろ寥廓そらがある。さして深からぬ穴の底は、油然としたたるその蟾円つき仄光ほのかげに酩殺されている。わたしは、声に反応することもできずに、鏡の造り出した光の筒の中で、だ、世界から遠い処に居るような気配にしずんでいた。

「君もそうはおもわないか、随眠の子よ」目の前に縄梯子が垂れ下がる。

 へたり込んでいたわたしの許へ一人の老人が降りてきた。老叟の肩には一羽の鴉が留まっていた。

「飲むといい」硝子の水呑を手渡す。「あの噴水ふきあげに流れているのと同じ水だ」

 硝子の表面にわたしの面貌かおあざやいで瞭然はつきりと映り込んでいて、わたしには、ほんの一瞬、わたし自身がその中に沈み込んでいたような気がした――蟾窟つきの色めくつめたさの底方そこいなる孤愁。余りあるひそやかさのる――

 夜だ!

 何時から寝ていたのだろう。嫋嫋たる蝉の声音のめく夕間暮れ――わたしは一箇の荒削りの石であった。淋しくひか夕曐ゆうづつの瞬きはそここ打ち照らすみずやかの一語であった。光耀にしおどけてならぶ者ばしきわたしをたすけるのはつねに先立ち流れてまぬえる急湍はやせであった。

 わたしは閲覧室で目を醒ました。球型の玻璃ガラスで蔽われた個室で机に俯せていた。窓の外は返照にたされ、炳焉とかがやきながら新たな闇のばたきを予告している。机上では古めかしい書見台に一冊の青い本が固定されていた。わたしはその本を手にって、何とはなしに頁をめくった。そこには幾つかの建築図面と詩歌が収められていた。好書家のよろこびそうな狸を主題にした蔵書票が貼られた奥付には、ささやかな著者紹介と肉球のような意匠の検印とが添えられている――建築家、詩人。著作に『うととき』『ふためき』がある。それから――光に隠されていたその名前を覗こうとしたときだった。

 とおく静やかな少女の声が聴こえた――母をさがすかのような懐かしい声音。

 わたしは、卵の形をした席を立つと静かな館内を見回した。四囲のくらさは、う人気の絶えてひさしいような気にさせる。

 わたしは象牙色の扉を開けて、書架の間を歩いた。

「世界にひとつの図書館」一つの声は双めいて――あわれがましく響く。「ひとつの言語のあらゆる方言によって綴られた書物たちの蒼古たる原生林、たったひとつのものがたりがたったひとりのために語られる、たったひとりの人生があらゆる言葉で飾られる、してたったひとつの言葉がたったひとつの世界に遍満していく、ひとつの世界が中心も無しにあらゆる角度で廻り続ける、そんな場所」

 わたしには声のする方向が判らなかった。

「わたしはこの図書館と同じ。ただくらものがたりのなかでのみてもらえるというあまりにも極微の権利をっているに過ぎない。だれかの眼差しで、だれかの光で満たされるためだけにわたしはいつもここにいる」

 わたしは無限に続くような気さえする書棚の谷裡を走った。わたしの足取りを追って棚は仆れ、幾冊もの本が――数限りない夢の余映が降り注ぐ。そして、泉下を流れる紆曲の不安が爬い廻る大きな棚どちは機を得たように雲とり、書巻のいずれもが冲空で溶けたように水と成ってゆく。

 言葉は雨となって道の上を紛紛と跳ね回る。

 信号を待ち切れなかった車列が水を撥ね上げて通り過ぎてゆく。わたしは傘を差して交差点にっていた。

 横断歩道の向こうには、傘も差さず、雨具もけずにつ少女がた。わたしは蹌踉として歩む。それから、少女は擦れ違いざまにこうささやくのだ。

「わたしの名前ならとっくにご存知のはずよ」少女はそのくちに微笑をせた。「だって、女の子どころか、人の、いいえ、生き物の名前なんてこの物語には――落魄したわずかな例を除けば、一度しか出ていないもの」

 雨脚はいよいよ激しくなりまさり、沛然と街の底を打ち鳴らした。

 わたしは交差点の向こうへと歩きながら、ゆっくりと振り返る。少女の浮かべたあの微笑の、細長の舌を秘匿する角度はわたしの幼さとの相似を示し、今しわたしの喔吚ほほえみは一羽の雀の冷ややかな幼形成熟であった。雀は一羽きり、木の間にさえずりながら雨宿りしつ、びたつときをなやみ、眺望画の下絵を見据えてざざめくだろう。

 少女の背中を――そのちいさな手を牽くもう一つの背中を睜める。

 少女は言葉の中にえてく。けれども、わたしの顔は確かにわたしの顔であった。

 ああ、もしもが名をなづければ、次第にわたしから遠退いてくのだろう。言葉は少女の――というよりは寧ろわたしの中に潸潸さめざめえてくのだろう。

 やがて一人の少女は、流出し透脱し去った玻璃ガラスだまおくるだろう。それからやっとくのだ、そこにはわたしなどなかったことに。とおった水に満たされた球の中の空無に。

 閉館だ!

 窓の外では折からの暑熱によって時機を逸した蝉たちの夜宴が、映り込んだわたしの姿だけがどこか余計に感じるほどに賑賑しく、続いていた。さあれ、それもにわかに接近してきた、墓碣のはだえただちにくろく染めてしまうであろう、碑銘だに刻めぬ漣漣たる淋しさに打ち消されてしまうのだろう。そうでなくてはならないから――その一粒一粒に反映する言葉はなべて宙吊りにされている間、無何有の原郷でありうるのだから。

「ずっと寝てたのね」声がする。「あんまり気持ち好さそうだったから」

 沾焉しとどれた地瀝青アスファルトの匂いの上を二人は歩く。街に咲くそこばくの花の中を二人は歩く。わたしたちのひびは――玻璃ガラスつくられた卵の中をたす永遠の仮睡まどろみを――わたしをめぐるこの囲世界を――透明な殻に蔽い隠された索迷の旅路を――おおいなる水の流れが忘却と記憶とを綯交ないまぜた流景ひかりとなって流れ、すべての出来事を吞みこむ刹那滅の明るみを――澱む水沫みなわの渦となって――

 不意と靴の爪先へ石礫こいしたる。一箇の石はそのまま排水溝の方へと転がっていった。わたしにはう一箇の石の何であるか、それは何をているのかれていた。

 夢だ!

 机の上には一冊の本があった――昧爽あさあけの色をけたような素朴な装釘の一冊。あちこちに何度も読み込んだような跡がある。ぱらぱらと頁をめくると、終わりの方に、わたしの筆磧によく似た文字で「無数の面をつ多面体――S原県立図書館(案)」と題された設計図が掲げられていた。わりなくも、頁の全部は蜘蛛の糸のような水と成った。白い水はわたしの方へと垂れてくる。そして、わたしの内部へと注ぎ入れられた白銀の曐楡の樹液は、悪徳の香氛を纏って、わたしのからだを回游し始めるだろう。逆らいようのないながれが万緒をむしばんでいくだろう。

 わたしははるかな余響を聞いた。じられた眼の中で原色の構想力が喚起され、ありうべき形態が瞬時に閃いていく、しかし広げていたはずの図面は大きな渦に巻かれて水底に沈んでしまう。だが、わたしはその消息だけをたしかに感じる。そのありうべき図面と寸分違わぬ建築が今はこの湲湲たる流れの底にくらえている。わたしは漂游しながら、その模型を眺めている。心地好さだけがわたしを包んでいる。にわかに劫初の河水は黒い舌尖をわたしの視界へと差し伸ばす――いつかわたしの口の端を伝うだろう毒を秘めながら。

 声だ!

 そこにはうだれもいなかった。わたしは雨に濡れながら閉館時間を過ぎた図書館の入口を背に立っていた。硝子の扉には影のひとつも映っていない。

 街は、家路にきながら、その忘れて久しいものを雨の中で想い起こすだろう。

 そのとき、白銀しろかねいろの奔流に――裏返された大蛇の貪婪の最中さなか醜鳥しこどり凶鳥まがどりが――灰色の熱帯雨林への讃頌ほめうたを、祝歌ほぎうたを、魔事まじわざを、咒文かしりを――咮咮くちぐちに唱えるのが聴こえてはこないだろうか――言葉が転義をかさね、あれらの嘴が縄のように解けてしまって、無数の縛めがひとのからだを柔らかに包んでしまうのを感じられはしないだろうか――そして、これらの無量のさざめきの中、河底に沈んだ一粒の砂金が――少時の面影の残響が届けられるのだろう――そして、もしも予め答を用意しておくことができるのなら、きつとその一語が迷うことだにもなく口にされることだろう。

 戞戞たる音が響いている。わたしはこの呪わしい囲世界を唯一そそぎうるものに浴しながら待っていたのだ――永劫にむことのない眠りの中で。ああ、ようやくにしてわたしはおさなきわたしの声を聴くことができるのだろう――そしてわたしはたったひとつの答を返すことができるのだろう――「あなたの将来の

*1 John Keats:Ode on a Grecian Urn(ジョン・キイツ「希臘古甌賦」日夏耿之介゠訳、『東西詩抄』。元々社、一九五六年)

*2 Stéphane Mallarmé:Autre Éventail de Mademoiselle Mallarmé(ステファヌ・マラルメ「マラルメ孃の扇」鈴木信太郎゠訳、『鈴木信太郎全集 第二巻 譯詩Ⅱ』大修館書店、一九七二年)

*3 Charles Baudelaire:LE LÉTHÉ(シャルル・ボオドレエル「忘却の河」鈴木信太郎゠訳、『鈴木信太郎全集 第一巻 譯詩Ⅰ』大修館書店、一九七二年)

[初出]ノベルスキー合同誌 vol.1、2024年 [BOOTH